東京というところは異常に人が多い。
上京する前、その時も「東京ってなんて人が多いんだろう」と思いながら渋谷のスクランブル交差点をキョロキョロしながら渡っていると、そのちょうど真ん中あたりで、そんなに親しくない友人に偶然出くわした。出会って間もない頃で片手で足りるほどしか会ったこともなかったのに、こんな人の多いところで会うなんて!!…と「東京来てたの?」「偶然だね〜!!」「びっくりしたね〜!!」とこの再会に驚嘆している間に信号機は赤に変わったらしく、それまでワサワサまわりにいた人並みはすっかり引いて、私たちは車の波に呑まれる寸でのところでそれぞれ目的の河岸へ別れた。
こんな偶然もあるもんだ…としみじみしたが、その人とは何度引越しても何度電話番号を変えても、なんとなく極細に長く付き合いが続いている。
上京してから、できれば逢いたい人がいた。
ある日お金をおろすため銀行に行ったはいいが、キャッシュマシンの操作を間違えてモタモタし、とても時間が掛かってしまい、後ろの人に恐縮しながら振り返ってみたら、その人がいた。あっけなく逢えてしまったのだが、それがあまりにも唐突だったので動揺のあまり、何故か硬直して私はそのまま逃げ出すようにして立ち去ってしまった。
地元にいた頃も何故こんなところで逢ってしまうんだろう?ということがしばしばあったが、この広い東京で会えるとは思っていなかった。その人はもう東京にいないので二度と逢う事はない。近くにいなければ、偶然という魔法の効力はない。
逢いたいと思ってくれていた人がいた。
その人が会いに来てくれることはあったが、私が会いに行くことはなかった。なかった…というよりも、会いたいと思えばいつでもそこに現れてくれる人だった。最後に会った時、今は連絡が取りづらい状況だと言っていたが、私の方も一時連絡不能な状態のまま上京した。その後、私はその人に会う努力を怠らなかったつもりだが、努力すればするほど障害が発生したり、まさに一歩違いというようなすれ違いが続き、結局会えずじまいのまま、その人は消息不明になってしまった。
おそらく人生の歯車が噛み合わない人だったんだろう。
何処に居ても、どんなに変わっていようと、
どんな人混みでだって見つけることができる
そう思える人が昔はいた。
今はもう気づくことすらできないだろう。
流行歌でそういう歌詞があったが、その曲を聞くたびうなずいてしまう。
逆に“どんなに変わっても、どんな人混みでも、何年会ってなくても”私を見つけてくれる人がいる。その人は粗野な風貌や口調の中に情に厚いところや優しいところもあり、その界隈ではある程度の信用とか実績があるらしく、ここ数年ではタメ口をきく人間よりも敬語で話す人間の方が多いようだ。
若かりし頃から、おそらく今も変わらず静かに慈しんでくれている。
何年かに一度しかその偶然はやってこないが、私が気づかなくても姿が見えると必ず声をかけてくれてお互いに悪態をつく(笑)。そして十数年経ってもその呼称は“ちゃん”づけ。
先日、週に一度くらいしかいかない場所で、それもお互いそんなところで会うはずからないような人混みの中、その人は私を見つけてこちらを見ていた。が、私は目をそらしてやり過ごし、他人の空似を装った。
確かに一瞬の迷いはあったが、ここで話をしてしまうことで生まれる善き縁よりも、ここで話してしまうことで膿み出てくる(その人以外の)悪しき縁を疎ましく思う気持ちの方がその時の私には優勢だった。
若い頃は街で知人と会うと嬉しくて犬のようにしっぽを振っていた。一時は会える時に会っておかないと、話せる時に話しておかないと、“次”の機会はもう二度とこないかもしれない…という思いに駆られたこともあったが、今は若干なりともシャットアウトしたり、少し考えてやり過ごすことも必要な気がする。
古い物も古い縁もすべてがすべて善いものとは限らない。
捨てた方がよい物、なくてもよい縁、メモリ不足なら消去すべき記憶…
仕分けられるものと、仕分け難いもの。
人はいろんなものを捨てきれないで抱え込んでいる。
posted by みし at 14:11| 東京 ☀|
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